イエスについての記憶、魂の記憶。

2021年1月6日水曜日

ONENESS

なぜイエスが、こんなにも世の人に認知されていて、彼の生まれが世界共通の西暦の起点になっていたり、これほどの影響があるのかというと、それは、この地球上で悟りに達してアセンションした 最初の人 であったからです。


今回は、そんな彼に不思議な親近感を覚えていた、私の魂の記憶・エピソードのいくつかを綴りたいと思います *.+゜
ワンネスの学びを選んでいる繋がり、筋合いが見えてくるかと思います。

また、彼と所縁を感じていらっしゃる方は、何か思い出したり、そのきっかけのスイッチがONになったりするかもしれません(*´꒳`*)






私が、最初にイエスとの繋がりを意識的に感じたのは、14歳の時でした。

何で彼の話題になったのかは覚えていないのですが、彼の話になった時、すごい剣幕で怒りをぶつけられたことがありました(*_*)

「右の頬を打たれたら左の頬も差し出せだなんて、そんな馬鹿なことがあるわけない!
あのイエスさんは、頭がおかしい!!!」

---- と、その人は、本当に本気モードで怒っているのです(≧▽≦;;
(でも、一応「さん」付けで呼んでるww)

普段、優しくてお茶目なところがあるその人からは、想像しがたいほどの怒りっぷりでした。

何年も経った後に、生まれながらにサイキックな知人にその時の話をしたら、過去世で、彼を信じていたばかりに迫害されて、それがツライ記憶として残っているのが原因みたいだよ、と教えてもらいました。
(ちなみに私は、迫害されそうになって捕まった時も、魔女狩りの時代で捕まりそうになった時も、私を逃がして助けてくれたり、かくまってくれる人がいて、難を逃れたのだそうです。)

そして、その怒りの発言に対して、私の咄嗟の想いは、

「彼の頭がおかしいんじゃなくて、私達が彼の頭についていくことができないんだよ。
左の頬も差し出す、もっと深い意味や解釈があるんだよ。
彼は、頭のおかしい人なんかじゃない!」

と、ものすごく強い確信と信念が湧き上がってくる想いを抱いたのを、鮮明に覚えています。
----そう強く思いましたが、それを口にしてしまったら、相手の怒りを煽るだけだろうと思い、グッとのみ込みました(≧▽≦))

そして、咄嗟に想った後に、「アレ?でも、彼に会ったこともないのに、この自信満々さは何??」...と、自分で自分にツッコミを入れたくらいでした(≧▽≦)

もし、真実がちゃんとあるなら、そのうち知る時がくるよね。。。と14歳ながらに想ったものです。

また、どんなに周囲が彼を悪く言っても、どういうわけか私は、彼に嫌な印象を持つことはありませんでした。
「彼は そんな風に(悪く)思っているような人じゃないってば。。。」と思っていました。

そして、「彼って興味深い人だよね。どんな人だったか、会ってみたかったな~~~・・・」という気持ちが、いつも心のどこかにあったのでした。。。☆



  *



過去世で修道女だった時もありました。
その時私は、聖書に書かれていたことを 全ては信じておらず、その時すでに、宗教とイエスの真の教えの隔たりに 気づいて&知っていました。
修道女なのにもかかわらず、歪曲されたことが書かれている聖書は 大嫌いだったという。。。(≧▽≦;;
宗教そのものに身を捧げるためではなく、純粋に一なる神と、真実を説いたイエス(宗教で広まった誤解された彼ではなく)を慕って/仕えるために、この時は 修道女をしていたのでした。



  *



今生で、自分でもビックリした別の経験は、メル・ギブソンが監督をした映画の「パッション」をレンタルで観た時です。

この映画は、アメリカで公開後、あまりの残虐なシーンに、神父様だかが 鑑賞中に心臓発作で亡くなったとか、かなりセンセーショナルな話題作でした。

この映画は聖書をかなり忠実に再現したという評判もあったので、教養がてら 軽い気持ちで観ることにしました。
そうしたら、、、とんでもない事態になってしまいました(☆_☆)

心臓発作は起こしませんでしたが、自分でも信じられないほど、泣き叫ぶのが止まらなくなってしまったのです。

ただ泣くのではなく、文字通り 「泣き叫ぶ」 です。

近親者が亡くなった時よりも、死にたいくらい辛い出来事が起きた時よりも、大泣きでした。

自分の意思では止められないほどの取り乱しようで。。。(>_<)
何度も、一時停止にして絶叫するかのように大泣きして、また再生しては大泣きして...の繰り返しです。
枕にタオルを当てて、そこに顔を埋めて 叫んでいました。

それはそれは、悲しくて悲しくて仕方ありませんでした(´;ω;`)
今でも、その時以上に泣いたことはありません。

どういうめぐり合わせかはわからないけど、絶対 私、彼のこと知っているよね。。。。と、確信したような出来事でした。


イエスを題材にした映画は いくつかあり、あれこれ観てきましたが、やはりこの、メル・ギブソンのが断トツに完成度が高いです。
当時の言語であるアラム語を使っていたり。

興味ある方は、観てみて下さい。

YouTubeにある予告編は こちら ↓。


---- そして、ワンネスを学んでいくほどに、この映画(聖書)の、どのあたりが事実と異なるか...ということも、わかってきました✧*
ゲッセマネの園で、自我に囚われて 彼はあんなに恐れにおののいているわけはなさそうですし、あんな風にヘビを踏んずけたりしていないんじゃないかと思います。
傷つけられても、彼は既に片足をアセンションの領域に踏み入れているような状態だったので、痛みすら感じてなかったと言われています。

そのことを理解するようになってからは、何度かレンタルしましたが、冷静に観ることができるようになりました(*´꒳`*)
彼が、苦しめられ虐げられている...という風に自我/エゴの視点で反応しないように意識できるようになりました。



  *



そうした出来事の後に、サイキックな知人からは、「私達、イエス様に会ったことあるよ。家に泊ってくれたんだよ~。」と教えてもらう機会もありました。

でも、その時はそれ以上の情報はあまりなく、「ふぅーーーん、やっぱり会うには会ってたんだ~~」くらいの感じでした。

また何年もして、また別の機会でアカシックレコードリーディングを受けた時に、もう少し詳しく教えてもらうことができました。

イエスは様々な旅先で教えを説いていましたが、実質彼の最後の旅となった時に、その期間中ずっと、家に泊めてあげていたそうです。
私は、いわゆる宿屋の女将のような存在で、彼の食事や洗濯などの身の回りのこともしていたとのこと。
そして、聴衆の前で彼が教えを説く時以外にも、家にいてくれている時に、彼から話(教え)をたくさん聴くことができて、「この人のうわさや評判は聞いていたけれど、実際はとっても普通の人なのね~( *´艸`)」と思いながら接していたそうです(≧▽≦)
プライベートな彼の姿に接する機会が、私の魂の記憶に刻まれたのでした。


そして、彼の最後の旅で、その町で最後まで、一番彼の教えを直接 学ぶことができたのが 私.....だったのでした *.+゜


しばらくして、アンダラと戯れている時に、当時 部屋にいてくれている彼の姿を見ているというシーンが、突然 目の前にリアルに現れるようにバーーーーッと見えて、思い出したこともありました。
この時は、嬉しさや歓びのような感動で、涙が止まりませんでした(T▽T)


この、彼に会っていた出来事が、何度生まれ変わっても、彼の真の教えを魂の記憶として覚えていたことが驚きでもあり、様々なことが 腑に落ち、納得することができました。


前回、奇跡講座の引用を他の本から見つけていた時に、惹きつけられて ただならぬ本だと感じていたことを書きましたが、最初は この本が、イエスの口述書だとは 全く知りませんでした。
彼の教えが書かれた本だと知った時は、ただただ ぶったまげました(@▽@)(☆▽☆)
嬉しい驚きの意味合いで ”ここで会ったが百年目" ならぬ、"ここで会ったが二千年目" という感じ✧*(≧▽≦)✧*




 ⍋.⍋.⍋ * ⍋.⍋.⍋ *




皆さまに色々、霊的真実をお伝えしていけるようになるには、私自身もその真実を見て体験していかないといけないと思っています。


私も、これからも学びの歩を進めていきますね٩(ˊᗜˋ*)و


改めて。。。どうぞよろしくお願いしますm(_ _)m *.+゜


そして、皆さまの帰還の旅路を推進していくパワーや 道標のようなお役に立てることを願ってます *.+゜





写真は、我が家のいろいろクロス✞

十字架は、刑に処されたイエスの自己犠牲の象徴みたいなのが 一般的な世間の認識かと思います。

イエスが説く 本当の意味は、

「十字架刑が教えるはずだったメッセージは、そもそもあなたが迫害されるなどということはあり得ないので、迫害の中にいかなる形の攻撃も知覚する必要はないということであった。」
(T-6.I.4:6)

---というもの *.+゜

この世の認識の真逆を行く真実✧*

知覚の訂正が、どれほど必要か思い知らせてくれると同時に、この潔ささえ感じる妥協のなさこそが、素晴らしく思えます *.+゜




- le voyage de retour








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