前回の<ことのはじまり。>の記事に続いて、私達の置かれている状況は、放蕩息子の話ともよく似ています。
放蕩息子の話とは、だいたい下記のようなあらましです。
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豊かな我が家で暮らしていた息子は、財産の分け前を主張して得ると、外の世界に飛び出します。
しかしながら、好き勝手なことをやって、その糧は底を尽きます。
他の人の元に身を寄せたりするも、多くを与えられることはなく、貧しさやひもじさは募るばかりです。
そして、我が家に帰ることが、自らを救う手段だと気づきます。
しかし、自分は天と父に反し、罪を犯した身なのだから、もはや息子ではなく召使いとして働くと告げますが、父親は全くそのようなことには耳を貸さずに、息子を息子のまま 歓迎し、祝宴をあげ、変わらず愛します。
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この息子は、強いられたり 放り出されたわけでもなく、自らの意志で実家を出ます。
まるで私達が 神の元から離れたかのように。(実際には離れた夢を見ているのですが)
散財し、欠乏を味わうことになり、離れた地で 必死に生き長らえようとするのは、私達がこの地球生活の中であらゆる問題の解決に勤しむ姿(外の世界の中で解決を求める姿)と同じです。
しかし息子は、いよいよ もうどうにもならずに、助かるためには元の家に帰るしかないと気づくのです。
これは、私達が一なる世界・ワンネスに還ろうとすることと通じます。
息子は、自分は愚かで罪を犯し、息子の資格さえ失ったと信じ、父親のどんな仕打ちも受ける覚悟もあったわけです。
しかし、父親の認識は 全くその逆でした。
息子に罪を見て 処罰などを与えようとは、最初からこれっぽっちも考えてさえおらず、ただずっと息子を愛していたのです。
ここでの息子は私達で、父親は神に例えられます。
私達は、<ことのはじまり。>にも記した通り、神の元を離れたという罪悪感を、無意識にも持っています。
一なるものから自ら分離した罪は存在し、必ず罰せられるに違いないと信じています。
(そんなこと 自分は 全然知らないし、身に覚えもない、と思うと思いますが、それは当然の反応です。
もし覚えていたら、無意識ではなくなってしまいます(≧▽≦;;)
でも、神は 真には私達は分離など起こっていなかったことを知っています。
何故なら 完全なる愛は、愛以外のものになることもあり得ませんし、愛しかないものが そこから個別の何かに変化したり、一つしかないものが複数に分離することもあり得ないからです。
そして愛は、無限に延長されますが、変化することはなく、ただ在る というものです。
この話の父親からは、まったくの無条件で 変わることなく息子を愛していることがみて取れます。
それと同様に神も、私達のことを常に愛してくれている....というのが真実です。