自我を超えた聖なる存在の必要性

2021年4月4日日曜日

ONENESS

スピリチュアルやニューエイジの世界にも流行りのようなものがあり、一昔前、「エゴやネガティブなものは避けましょう」「エゴとは仲良く/上手く付き合っていきましょう」--- のようなスタンスを取るのが良しとする情報が、急に散見するようになった時があったと記憶しています。

その時の、自分の精神的状況やキャパシティーによって、一時的に回避することは悪いことではないとは思います。
しかしながら、ずっとこのようなスタンスでは、自我/エゴは 温存されたり隠されるだけであって、取り消すことはできません。
また 私達は、お辞儀を2つに分けることもできないように or 2人の主人に同時に仕えることはできないように、自我/エゴと聖なる存在を 同時に選ぶことはできません。


私達には、認識している部分も、認識できていない部分にも、大なり小なり 不安や恐れ・罪悪感を持っています。

これはまるで、氷山の例えのようで、水面に見えている氷山(=意識できている部分)はそんなに大きくは見えなくとも、水面下(=無意識の領域)には、末広がりに途方もなく大きく堅固な氷が広がっているかのようにあるものです。

私達は当然、この隠された暗く冷たい部分:闇を、できれば見たくないと思っています。

何の心得も無しに、そのような部分を一挙に見ようものなら、恐怖で縮み上がり、一層防御に努めたり、避けたいと思うに違いありません。

聖なる存在は、私達をスピリットとして永遠の生(いのち)であり愛と捉えますが、その対極にあるのは、死や恐れです。
--- 自我/エゴと "仲良く" なっても、その先に 平安や幸せがないのは、明らかなのです。


私達は真には一なる世界から離れてはおらず、分離の夢を見ているだけなのですが、その夢から目覚められるように、真の世界に属している聖なる存在を、私達は私達の中に有しています。

一なる世界の記憶を蘇らせ、元来た道に連れて帰らせることができ、私達を無条件に愛してくれている存在です。

私達は、独りぼっちで 自我/エゴが築いた氷の要塞から抜け出すことはできません。
私達の手を取って、そこから抜け出し、帰還の道を知っていて、闇に光をもたらすことのできる存在が必要なのです。

自我/エゴの大きな声に惑わされたりして、私達は 聖なる存在を無視してしまうことはできますが、愛は真実で、真実のみが実在するのが愛の世界なので、その聖なる存在を失うことは決してありません。

自我/エゴが大きな声を上げて騒いで、私達の不安や恐れを掻き立てているということは、私達が真実の愛を選ぼうとしていることへの反発です。

そんな時...どんな時にも、私達の手を取って導き、慰め 励ましてくれる、自我を超えた聖なる存在がいるということを、忘れずにいる必要があるのです。

そして、自我の一時的でしかない幻想の中での真実の代替え案に惑わされるのではなく、真実を得ることのできる聖なる存在の手を取る(=愛を選ぶ)ことを続けていきたいですね。。。☆




聖なる存在...私は個人的には、ホーリースピリットと呼んでいます。
聖なる存在については、前回の<2つの思考と内なる教師>もご参考下さいね。

天使やクリスタルに宿るスピリット達も、聖なる存在の顕現だと 私は思っています。




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