この世的見解では、私達の自由意志を実現させるために、行動・アクションを起こすことは、かなり重要視されているかと思います。
この世で 普通に生活するのに、私達は必要な行動を起こさなくてはならないのも事実です。
でも ワンネス的には、真実を知らずに そこに囚われてしまい、それこそが重要・重大なものだと思っているならば、それは単に、この世はリアルであることを助長しているにすぎません。
これは、この世の枠組みに私達を留まらせ、その向こう側にある一なる世界に行くことを阻むトリックです。
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どんなにカタチの上では崇高と思えるような言動も、その根底が愛でなければ、一なる世界では、それは愛とは見なされません。
この世で行動をするというのは、肉体を伴った動作です。
肉体は、あるように見えているだけで、幻想です。
幻想である身体が 幻想のこの世で行動しても、それは幻想なのです。
心は、肉体の目には見えませんが、真の世界に影響するものです。
私達の心・思いが、この世界に反映されています。
なので、この世的に行動をする際には、【 何をするか/何をしたか...という行動ではなく、どのような思考・思いを基にして それを選ぶか/選んだか 】 が重要になります。
行動の背景にあるものが、実は不安や恐れ、憎しみなどから為されているのであれば、一見どんなに素晴らしく崇高な何かをしていても、スピリチュアルな真実においては 不安や恐れ、憎しみが反映されることになる ---- ということです。
カタチの上で行動をしていなくても、本当に愛を選んでいるなら、行動は必須でなくなります。
(行動が必要な時は、そうなるように導かれるはずです。)
例えて言うなら、誰かといざこざやわだかまりがある時、相手も真には罪なき愛の存在であると見て 真に赦す時、それは自分の心の中で行われれば良いのです。
仲直りの握手やハグをしたり、あなたを赦しますよと 面と向かってわざわざ言葉にしなくても良いということです。
相手が身近に居ても居なくても、亡くなっていても関係ありません。
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また、ワンネス的意味での自由意志とは、この世であれやこれや起こす行動の選択のこととは違います。
目の前で起こってるように見えることや行うことに対して、それらを愛の思考を基盤としているのか or 自我/エゴが基盤にあるのか ---- という二択こそが、真の自由意思になります。
私達は、愛を選ぶことも、自我/エゴを選ぶこともできます。
どちらを選ぶのかが、真の自由意志です。
- le voyage de retour