他の誰かに抱く 憎悪や嫌悪感・・・誰しも人生の中で、そんな気持ちを感じてしまう人と遭遇したことがあるのではないかと思います。
Xさんのことでトラウマを持つZ君は、彼女を罵ったりするようなことはありませんでした。
しかし、彼女とのことを向き合うことをも拒否していました。
当時、寡黙に拒否することが彼の今生の精一杯の対応だったのかもしれません。
私にもこの話題を持ち出されることを望んでおらず、今よりも未熟な私も、流石にずけずけと踏み入るようなことはできませんでした。
これが彼のレッスンであることは 明らかです。
推察するに、彼は彼女を赦すことができるまで、同じレッスンを 別の世でも繰り返すことでしょう。。。(ガンバレZ君っ! )
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Xさんの心情は、この世的には屈折していて、Z君を忘れられずに特別な愛の対象としている一方、同時に彼女は彼を苦しめることを選択しました。
自分の気持ちが拒否されて幸せになれないのなら、Z君も不幸の道連れにしてやる、という想念です。
そしてもちろん私へは、彼女にとって特別な彼の愛情を奪っていった憎き人であったわけです。
特別な愛も特別な憎悪も、真の愛から遠ざけるためのものである以上、その本質は同じということになります。
彼女は見事なまでに それを体現してくれていました。
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さて、Z君にとってもXさんにとっても、どんなにそれぞれに言い訳があったとしても、ワンネスの概念でいうならば、彼らは自分の中にある自分自身への憎悪を 自分の中に留めておくことができなかったので、外側に存在しているように見える自分以外の相手に憎悪の対象を「投影」したにすぎません。
それぞれに自分が相手を怒っている・嫌っている事実を正当化しようとしていますが、この世で見えている形態がどんなストーリーであるかは関係ありません。
実際のところ 例えば、XさんがZ君の信頼を裏切ったかして それで彼が怒ってるなら、彼自身が一なる世界(神)を裏切って分離したことに、とてつもなく自分自身を赦せずに憎悪していることになります。
それを彼女に投影して、彼女を非難しているのです。
※ ↑ このロジックを理解するのは 重要です。
何故ここでいきなり、一なる世界・神との分離の話が出てくるのか「?」と感じられる方は、【「相手=自分」と罪の意識の投影】をご覧下さい。
ただ、当人たちは憎悪しているのは実は自分自身であることに気づいていません。(一なる世界との分離したと信じている記憶が無意識下にあって、忘れてしまっているから。)
キリストが迫害されている最中、彼を痛めつけている人達について
「神よ、彼らをお赦し下さい。彼らは自分が何をしているかわかっていないのです。」
と言った意味は、コレです。
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そしてXさんのような攻撃は、ワンネス的に見れば それは全て 愛を求める叫び声 です。
(↑↓この部分も、とても大事です!)
もし、XさんがZ君への愛が真の愛であるならば、攻撃するなどということは到底 不可能でした。
攻撃とは、その人が愛を受け取れない・感じることができていないことの表われです。
だから、「自分も愛を享受することのできる、罪なき神の子であることを どうか教えて欲しい!!︎」という叫びが、攻撃というカタチで表現されているのです。
.... 愛を求める叫び声 なのです。
特別な愛の関係 ④...につづく
- le voyage de retour